目覚めと革命の星「天王星」と月が重なっていた、3月31日の新月はかなりインパクトの強いスタートを促しました。その流れは今月の15日の満月&月食、29日の新月&日食の大きなブレイクスルーにつながります。3月31日牡羊座の新月ボトルは、9番と99番でした。9番はタロットカードで隠者と対応しています。この隠者のカードを理解することが、今月の大切な鍵になるかもしれません。松村潔の「数の原理で読むタロットカード」から、隠者を紹介したいと思います。ちょっとマニアックな内容ですが、興味のある方は読んでみてください(笑)
バーバラ・ウォーカーは、この隠者のカードを、「ある時期を独り荒野で、あるいはまた精霊の再生の子宮を表す洞窟で過ごす姿」と読んでいて、幻想者、賢人、魔法使い、預言者、救世主などの男性に共通した元型だとみなしている。そしてユングを引用して、「このような孤独や倒錯には、音よりくる心理学的理由があるようで、他人との接触の欠乏、すなわち孤独の代わりに生ずる大気圏での霊魂の生気の法則としての結果であって、それは無意識のうちに活性を与えると述べている」と説明している。
9の数字はよく総合性とか、宗教性とか、柔軟な応用力などと言われているが、特定の場にオクターブ作用を閉じ込めることで、その場においての力や権力を手に入れる8<裁判の女神>に比較すると、9はその次の数字として、8の数字が示す特定の場や生き方の「型」の拘束からは自由になる。そもそも9<隠者>は基本的には、移動し、旅していく資質を強い特質としていて、絵柄でも旅する老人が描かれている。いずれにしても偶数の数字は内向で非行動的で、奇数の数字は外交的となり、行動的な性質が強い。
9の数字が何をあらわしているのか解明するために図形的に考えてみよう。2の数字は相対的な性質を持ち、対象との関係に振り回され、そこから自由になることはないという点を女教皇の項で説明した。次の3の数字は能動と受動と中和という3つの要素で成り立ち、能動と受容、すなわち陰陽の関係を中和する創造的な結果(子)を生み出すことで、次々と生産的な活動ができることを説明した。2の数字の本性が必然的に持つ二者の互いに離れられない膠着状態からは自由になり、同じ状況には戻らない新しさが3の数字の強みだ。この2と3の基本的な意味を覚えておいて、9の図形とは、三角形が三つ配置されている形なのだということを考えてみると、だんだんと9の性質が明らかになってくる。
三角形が二つ組み合わされた六角形は恋人のカードだ。この六角形の図形は、内面と外面、自分と他者という関係性において、2の数字と同じように相対的な関係性に縛られており、自分の姿勢を固めようとしても、関わる相手によってそれができないということが多い。
この六角形が持つ、互いの三角形の影響にとらわれという拘束から逃れるには、2から3へが自由な生産性へと変化したことと同じ理屈で、三角形を二つでなく三つにすればいいのである。六角形では、自分と外界は鏡のように反応しあっていたが、もう一つの三角形が介入してしまう9の数字では、内面と外面は鏡のように精密に対応しにくくなる。割り込み処理する三番目の三角形があるからだ。2が3に成長するかのように、6は9に成長する。
第三の三角形は、残り二つの三角形の関係性に対しての、新たな意味を付与する働きを持っている。そしてこの第三番目の三角形は、ほかの二つの三角形のように陰陽には支配されていない。3が能動・受動・中和の組み合わせであったように、第三番目の三角形は中和原理としての働きを持っている。世の中は人と人のいろんな関係性でできている。そしてそこに変更しにくい意義がある。9はその関係性にどっぷりと染まることなく、自由な立場から、関係性について新しく定義することができて、その意義によっては、陰陽の組み合わせの六角形のありかたに変化が生じる。つまりは精神のいろんな可能性を探る旅をするのが9の数字ということである。人生の諸事を体験し、しかしそこから脱出し、そして自分の生きる意味はどんなものか、自由な立場で考え、いい考えがみつかれば、戻ってきて、それを人生の諸事にあてはめていく、というのがおおまかな9の数字の意味となる。
そもそも陰陽の二つの三角形は、磁石のように引き合っていて、そこに意義など考えることは及びもつかないかもしれない。が、第三の三角形の作用によって、そこに中和的な意義が生まれ、その結果によって六角形は結びつきを強めたり、弱めたりする可能性を与えられる。結婚をしようとするカップルに、祝福の言葉を与えることで、この結びつきはさらに強くなるし、人と人の関係性に対しても、これこれという意味があるのだと解釈すると、それによって関係性には新しさが持ち込まれる。
9の数字には、六角形が作られたところで発生する感情や興味の方向を変化させてしまう力があることは非常に重要だ。浅利篤は児童の絵画分析に革命的な手法を編み出した人だが、親の性行為を盗み見した子供は絵の中に緑色の三角形と赤色の三角形を組み合わせた六角形を書くという。子供は、まだこの男女関係の結びつきからくる感性に染まっていないので、それはさぞショックな光景である。しかし現代社会は商業も産業も、基本的には男女の引き合いということを基礎にして作られている面が多い。流行曲も映画も濃い男女関係の感情をこれでもかこれでもかと賛美するし、売れるものを作るにはそこにセックスの要素を入れなくてはならないと考える人も多い。
しかし9の数字は、この緑と赤の六角形の感性から、自由に解き放たれる可能性を与える。あるいは六角形の結びつき具合に対して、新しい価値や精神的な意義、もっとひねくれた定義などを付与することができる。
さて、ここでやっと冒頭の引用文の意味についてあらためて考えることができる。「大気圏での霊魂の生気」と接触できるには条件があり、社会的なしつけ、すなわち男女の情感の交流に占有された感受性が、もっと自由になる必要があるのだ。男女の関係に熱中し、そこから発生する意味作用、たとえば結婚、家庭、愛情、男の論理、女の論理などに心の中が占有されると、その周囲にある空や空気、樹や草の気配をリアルに感じることはなくなる。性の目覚めの前の子供、あるいは性が枯れた老人ならば、こうした人以外のものにアンテナを持つことができるが、童翁は社会の外郭にある人々であり、中心的な役割など持っていない。
9<隠者>の持つ杖は、「処女性の男根」と言われている。カードの絵柄でも、隠者の持つ杖は、腹の位置から下にある。杖は地上と接点を持つときの意思のあらわれなのだが、腹から下に伸びている以上は精神性を表していない。精神性を表すには、胸から上に配置しなければならない。この杖は生殖器そのもののシンボルと考えてよいと思う。が、六角形という男女関係の感性でしつけられた男性生殖器は、性行為に向かうようにしつけられている。処女性の男根というのは、性衝動という本能的な要素が、この男女の性行為に向かわず、もっと別のものに、すなわち「大気圏での霊魂の生気」との接触に向かうようになってくるのだ。その昔、下半身に人格はないという言葉があったが、精神的なことをいいながら、それと裏腹に下半身はセックスに熱中する人は多い。隠者の杖は、本能が、つまり心の底にある本性が、男女の交合に向かう感覚の型をもう失っていて、人間以外のものと交わろうとしているのである。
グルジエフは物質を振動密度の高いものから低いものまで、振動の表とでも言えるような方法で分類した。土、水、空気、火(動物磁気)、思考、動作・本能、高次感情、高次思考という順番で振動密度があがり、物質密度は反対に薄くなるのだが、人体の中では、人間以下の動物、植物、鉱物など物質密度の高い意識は、脊髄に沿って下から上に配置され、脳の位置がちょうど人間の返金的な頭脳活動、すなわち思考に対応する。そしてさらに、人間の平均的な思考活動よりも高次な振動の意識は、もう一度体の下に向かって配置される。宇宙の低次な意識から高次な意識に至るまでの要素は、身体の中に逆V字型に畳まれて組み込まれているということなのだが、生殖器の近辺には、人体が生産できる最も高度な振動の物質が蓄積されている。これは思考でとらえることができない高度の意識なのだが、グルジエフは、「性センター」という言い方で、人間の組織の中に存在する最も高度な振動を持つ中枢を説明している。実はフロイトも、そのことについて言明しているのだが、かつていつのまにか大きく誤解され、ほとんどの人がフロイトはなんでもかんでもセックス説という乱暴な見解に傾いてしまった時代があった。性センターと、性機能は混同されやすいが全く違うものだ。
この性センターの力は、人間の魂の根本的な元型を作り出す、もっとも純粋な物質だと思われる。グルジエフによると、性センターは外界に対して全く無関心ということだが、簡単に言えば性センターの力とは、純粋な命の力と考えてもいいと思う。この性センターの強大な力を、感情センターが盗み出すと、何かに熱狂するような性格が表れる。たとえば自分の仕事さえ投げ出して、阪神タイガースに熱中する人はそんなものだろうし、動作センターが盗み出すと、心臓破りのマラソンにチャレンジしたりするようになる。思考活動が盗み出すと、狂信的な思想が現れてくる。性センターの力とは、基本的に命が持つ「存在の快楽」というようなものではないかと私は思うのだが、この性センターの力は大人になると、性行為や性的なエクスタシーの中で感じられるようになり、いつのまにか、子供と老人が持つ能力である、世界そのものを全体意識で感じる知覚が鈍くなるのではあるまいか。
性センターは、そもそもその人の個性の核心となる元型センターのようなものなので、そこには、存在そのものの喜びや快楽が伴う。が、性行為の中で、その快楽が刺激される癖がつくと、本来の自分の個性化、あるいは元型形成へのコースから外れて、男女関係を意識したところの人格スタイルへの追及衝動が生まれる。男から見て美しい女。女から見て魅力的な男。コマーシャリズムの中では、こうした土壌の上で美意識が生まれ、美とは、そうした延長線上にしかないのだと思い込まされることになる。
男女の情感という六角形から自由になった9の隠者は、男女関係にもっぱら反応する性機能から解放され、「処女性の男根」として、本能的に、心の底から自分の求める究極的なあり方に向かって歩むことができる「推進力の強いエンジン」を手に入れたのである。
個人の根源の個性を持っている性センターは進化するのか。実は進化するために、感情と結びつき、また思考と結びつき、男女関係が基礎に作られているこの社会に入っていくのだ。しかし、通常の経験で、この性センターに影響を与えることはできない。性センターが持つ振動は有機体の中で最も高度なものであるため、その速度に達しない知性活動や行動とか努力は、そこに刻印する影響力を持たないからだ。性センターの持つ元型的な要素に新たな影響を持ち込むには、同じレベルの力を持つしかない。感情はそのレベルに達することができる。しかし思考はその速度に追いつくだけの発達は今のところできない。感情が性センターの振動に匹敵する段階とは、言葉で言い尽くせない感動や、ある種の法悦感のようなものを感じた時である。この体験が何度も何度も繰り返され、感情の力の中にそれが蓄積され、十分な発達を遂げれば、その感情体験と共鳴することで、性センターに微妙な変化がもたらされる。これ以外日常的な体験の中では、たいていこの性センターに影響を与えることができないし、日常的な体験の中での感情の働きや知性の働きは、性センターから見ると、経験時間に加わらない。
性センターの力を、先人が植えつけた、性的な方向に漏らすということを食い止めるために、古来から様々な方法が考案されたと思われるし、修行僧の禁欲などもそれにあたるかもしれない。しかし禁欲は多くの精神異常を作り出すだけで、それならまだグルジエフの言うような過剰な性の体験の中で自動的に「飽きる」のを待つほうが健全だろう。
宇宙人とコンタクトしたという田舎の主婦ベティ・アンドレアソンについて書かれた本を読むと、性的欲求不満が宇宙人という性的妄想を作り出したと結論付けてあった。つまり性センターの過剰な生命力は、放置しておくとあらぬいたずらをするので、社会が唯一認めた鎮魂の方法、すなわち正常な男女関係の中で鎮めるべきだと言いたげである。しかし宇宙人とのコンタクトが偽りであると断定する根拠は何一つない。まだ肯定も否定もできない段階である。今のところ、現代人の性センターが赤と緑の六角形、すなわち性行為に縛られ、その線上で形成される美意識、生活意識、感受性に固執しすぎているがゆえに、多くの人は宇宙人や妖精と出会えなくなっているのかもしれないという仮説が成り立つだろう。社会ルールは、大勢の人々の生き方の平均値で作られるので、それはたんに集団的な主観性でしかなく、客観的な真実を示しているわけではない。ベティ・アンドレアソンは子宮除去手術を受けていたが、彼女が通常の性的な行為に欲求不満になっていた証拠はないし、検査官はたんに彼女が長い間性行為をしていないという事実を見つけただけだった。ベティがそれに執着していたか、その雛型にしつけられていたかどうかなどは頭に浮かびさえしなかった。検査官は権力志向の男だったので、「自分は専門家だから、誰の意見よりも自分が正しい」という姿勢を崩さなかったし、誰かが意見を言うと本気で怒った。「彼らはあなたではなく、わたしにコンタクトするべきだったのに、こんな無教養な田舎のあなたをどうして選んだのか」ということをあからさまに公言した。
隠者の「大気の霊魂の生気」や「処女性の男根」は、こうした性センターが六角形から自由になった段階で、望むならば非日常的な体験をしていくことを物語るのだが、ベティ事件と、接触したクアズカという知性体に関する資料は、私には長い間関心をひきつけられる話だったし、今でも関心を持っている。彼がいないから宇宙人に会うんだよ、という意見はもっともかもしれないが、資料的にあまりにもリアルで興味深いので、それがデートに化けるのはもったいない。
もうひとつ最近たまたま面白い事例を見たことを書いておこう。私はオーラ研究会というものをしている。身体の周囲に取り巻く磁気の膜をオーラといい、二時間練習すればだれでも見ることができる。これは神秘でもオカルトでもなく。視覚に共感覚の投影をするだけのものなのだ。たまたまこれを書いている周の金曜日、ダウジングでは日本の第一人者と言われている人のオーラを参加者全員で見る機会があった。オーラ視覚の中で、彼の生殖器の位置から、いくつかの金属的な棒が、地面に垂れ下っているのを何人かの人が見た。私は彼をこの9<隠者>そのものだと思った。それは隠者の杖なのだ。ダウジングの人は、性センターの力を、大地の模索すなわちダウジングのために使うということのあかしがオーラに刻印されていたのである。性センターの振動密度はどんなものより高速なので、この力によって行われたダウジングは超越的な作用を持つことになる。それを邪魔するものなどこの地上にはない。彼はそれに心底、楽しさと快楽さえ感じているはずなのだ。性センターは、人間存在の台座なので、この性センターの個性の雛型にすべてをのせて、つまりは全身全霊で取り組むことができる。ここまでくれば、日本で第一人者と言われるのは当たり前かもしれない。人間の存在の根底にある性センターの元型は、心底その人が適性を持つものに向かうので、本当のはまり役になってゆくし、そんな人は流行なぞ気にしない。彼にとってはダウンジングが天命なのである。
9は、しばしば1からの総和といわれる。これまで思考、感情などによって努力し蓄積してきたものが、9の位置で本能的な働きとして定着し、その人そのものとして結晶化する。そうなれば、何も考えなくても、衝動に従うことで、その人の一番目指すものに向かう。一番幸福で、楽しいもの、快楽をもたらすものに向かえばいいだけなのである。これが処女性の男根という意味だろう。9は6からの自由をもたらすとともに、自然数の順番の並びかたで、8から自由になるという面を持っている。8はオクターブの7の数字を特定の場に閉じ込めることができたのだが、この8の「型の意識」も、欲望をひきつける六角の性質を固定していき、それを繰り返される型にしてしまう作用があるので、ともに共犯関係にあった数字なのだ。
9の図形として、より精密でより人間の現実に即したものがエニアグラムだと思われる。
ここでは陰陽それぞれの三角形は独立せず、互いに入れ替わる。結果的に「合法則的不規則性」という作用が出てくるが、陰陽の陰がいつのまにか気づくと陽に変化し、また陽がいつのまにか陰に変化するという法則は、世の中の矛盾を説明するのにはとてもわかりやすい図式だ。そして結局はすべてを、中和の三角が支配しているという法則は、人間は注意力の集合体でできているということを証明する。興味を集中させたものにはリアリティを感じ、そこから関心が去るとリアリティは消えていく。物事の真偽も、近づくと真実に見え、遠ざかると偽りに見える。単純に人はなりたいものになる、ということがよくわかる図だ。
生命の樹では、このカードはケセドとティファレトのパスに対応する。ケセドは心理的な許容範囲がもっとも大きな寛容、弛緩などを意味するセフィロトで、個人の生き方の中心点であるティファレトを、この意識に調和させてしまうと、それは反対のゲブラーという欲望の焦点の意識につながる、8<裁判の女神>と対照をなす。
ゲブラーは物質的生活に降りる架け橋で、ゲブラーに集中することで、個人は肉体的な個人生活、感覚性、欲望の実現を果たす。一方隠者が同調したケセドは、こうしたゲブラーの具体性志向から遊離して、生命の樹の上方に向かうので、日常での生活での細々とした欲求の処理能力や判断力を失い、広大に広がる宗教的でもある意識に、「糸の切れた凧」のように投げ出される。彼は目をつぶって、しかしそれでも「処女性の男根」によって、正しい場所に至るのだ。ケセドに同調すると、広がる精神の世界に上昇し、ゲブラーに同調すると、物質的な領域へと降りるのだが、8と9のカードはその正反対の方向を示すカードだというわけである。
10進法の数字の進行では、9は人間最後の完成の数字である。10以降の二桁数字の展開は、これまでの1から9までのシーンとは全く違う世界に突入する。タロットカードも、これまでは単独の人間が描かれることが多かったが、二桁以後のカードは人というよりも状況を示すことも多くなる。
そして、これまでの1から9までのストーリーは、高次の意識がより物質的な世界に下降することを示していた。魔術師はただの人になり、一度は社会参加し、働き、その社会の中で個性を確立して行った。6<恋人>のカードで、異性を通じて社会の中に入り、7<戦車>では思い切り行動していき、8<裁判の女神>では、限られた職場で力を得た。9<隠者>でお役御免になり、自己の本性とは何かを自覚する旅に出た。しかしまだ9<隠者>の段階では、魔術師が捕獲された原初の拘束、すなわち大地からは自由になれない。神のような超越者が物質的な存在になる。この原初の転落の傷が完全に解決されるまでは、タロットの物語は終わらない。転化の輪が示すように、1から10までは転落の歴史。そして11から20ないし21までが回復の歴史でもある。 |